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熊谷守一のこと1

美術館館長・熊谷 榧

熊谷守一は、明治維新たかだか10余年後に、木曽の片田舎(現中津川市付知町)で生まれた。父親は岐阜の初代市長を務めた人で、家は製糸工場を営んでおり裕福だった。父親の方針で、岐阜市内の町の小学校に通うことになる。小学生の時、先生の教える楠木正成の忠義話は明治になって為政者が持ちだしてきた話だと思ったという。先生の話より、教室の窓から舞い落ちる木の葉に気をとられ眺めているものだから、終始立たされていたそうだ。運動会では、守一が騎馬戦の旗頭になったが、危うく負けそうになると市長の息子という遠慮からか、校長が慌てて終了の呼子を吹いたとのこと。

岐阜中学3年の時、上京する。守一を商人にしようとしていた父親の大反対を押して、1900年東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画選科に入学する。藝大の連中とみんなで20世紀の開始を祝って肌色パンツを穿き、御輿をかついで気勢を上げたという。22歳で父親の急死と実家の破産にあう。卒業した時は日露戦争中で、樺太漁業調査隊に写生係りとして雇われ、各地の風物、地形の記録などをスケッチする。小舟で海岸線をまわったとき、1日の食いぶちを捕ると網もそのまま、砂浜にじっと座っているアイヌの人たちに魅せられたという。

守一は自分でも言っているように、いい絵を描いて褒められようとも、有名になろうとも思わず、たまに描いた絵も売れず、長いこと千駄木や東中野の借家を転々として、友人の援助で生きながらえてきた。1932年に、いま熊谷守一美術館になっている豊島区千早に越して来た頃から、ぽつぽつ絵も売れて、なんとか家族を養えるようになった。

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油絵 熊谷守一 自画像

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